必殺仕事人・栗原貴宏
先日、引退された栗原貴宏選手のインタビューの続編をお届けします。
前回の記事はこちら「栗原貴宏のラスト18.4秒」
思い出が詰まった東芝・川崎時代
一番印象に残った試合
栗原選手がキャリアをスタートさせたのは2010年。当時の東芝ブレイブサンダース(現・川崎ブレイブサンダース)だ。
8シーズンの在籍期間を「思い出話はいっぱいある」と振り返ってくれた。
「NBLとオールジャパン(天皇杯・皇后杯全日本総合バスケットボール選手権の通称で、現在は天皇杯・皇后杯全日本バスケットボール選手権大会)で2冠を達成した2014年は、自分のキャリアの中でもすごくいい時期だった。あの頃のチームメイトみんな仲も良く、チームとして結束していた」
栗原選手にとって、最も印象に残っているのもその年のオールジャパン、和歌山トライアンズとの試合である。
「残り10秒切ったくらいで僕がボール出しだった。そこでパスミスをして相手ボールになり、3点リードしていたがその残り数秒で3点決められて、残り0.7秒でラストタイムアウト。その時、追い上げられて同点にされ、流れ的には延長になったら負けると思って…僕のミスだしやばいと思っていた。」
でも最後、あのチームメートに救われる。そう、ニック・ファジーカス選手だ。
残り0・7秒という時間の中でシュートを決め、東芝が勝利する。
「ニックが決めた瞬間崩れ落ちた」
現役生活の中で、その試合、その瞬間が一番印象に残っているそうだ。
長年、東芝時代からチームや選手を取材し続けている記者の飯塚友子さんは、当時のことをこのように語ってくれた。
「遠くの席でも栗原選手のやってしまったという感じが伝わってきた。和歌山との試合での苦戦が決勝での苦しい試合も乗り越えられる一つの要因になったのではないか。」
東芝は決勝でトヨタ自動車アルバルク東京(現・アルバルク東京)と対戦し、 大接戦。伊藤大司選手(現・滋賀レイクスターズ)のスリーポイントが決まり逆転を許したが、試合時間残り18.8秒で1点を追う東芝はニック・ファジーカス選手と辻直人選手が連続得点をし優勝を掴み取ったのだった。
印象に残っている試合について語る栗原選手は、どこか思い出すことが恥ずかしいような、でも話しながら当時の嬉しさを思い出しているような、そんな声をしていた。色褪せることのない記憶だ。
共に戦った仲間たちの目に焼き付いている栗原貴宏選手の姿
最高にカッコいい選手であり、人間だった
大学時代の栗原選手が、ある選手にかけた言葉である。
この言葉が、その選手にとって「ポイントガードの基盤になっている」のだという。その相手こそ、日本大学、東芝、川崎ブレイブサンダース時代の後輩にあたる篠山竜青選手なのだ。
「大学時代、ポイントガードとしての悩みが尽きない苦しい時期にこう声をかけられて、周りが引くほど号泣したのを覚えている。当時、僕はそれくらい苦しんでいた(笑)」とこの言葉をかけられた時のことを振り返ってくれた。
篠山選手が東芝入団を決めた理由の一つに栗原選手の存在があったことをかつて明かしてくれたことがあった。年齢差は一つだが、篠山選手にとってもそれほど大きな先輩なのだろう。
川崎時代に、栗原選手が「俺はあまり後輩たちに多くを話すタイプではない。声かけは篠山がやるから。」と笑っていたことを思い出した。多くに悩む後輩たちに、教えるべきことは背中で見せられる。そして本当に必要な言葉だけを伝えられる。その言葉で後輩たちの背中をポンと押してあげられる。それができるのが栗原選手だったように思う。簡単なことではない。
そして栗原先輩から背中を押された篠山選手は、今も川崎や日本代表で多くの選手に声をかけ鼓舞を続けている。
栗原選手の目には、そんな篠山選手の姿すらも嬉しく頼もしく映っていたことだろう。
長く一緒にプレーをし、ずっと近くで見続け追いかけてきた篠山選手には、栗原先輩の姿はどう映っていたのだろうか。
「大学の頃に大きな怪我をして、そこからどれだけ苦しんだのか、近くで見てきたつもりだけど、僕なんかでは分からない、計り知れないほど苦しんだんだと思う。走り方も、シュートの時の足も、怪我をする前の形には戻らず・・・それでも日本代表まで上り詰めた人。最高にカッコいい選手であり、人間だった。」
思うようにいかない、戻らない体。それでも、バスケット選手として生き抜く道を見つけ切り開いてきたのだ。その道が間違っていなかったことは、仲間と共に成し得た優勝の数、そして篠山選手の言葉にある通り、日本代表へと続いたことが証明している。
仲間からもとても愛される選手だった
東芝時代お世話になった方々へは山形ワイヴァンズへ引退の意思を伝えた直後に電話で報告をした。当時HC、ACだった川崎ブレイブサンダースの北卓也GM、佐藤賢次HC。さらにフィジカルパフォーマンストレーナーの吉岡淳平さん、東芝時代の同期でかつてはマネージャーとしても活躍し現在もDeNA川崎ブレイブサンダースのチームスタッフとしてチームを支えている山科朋史さんなどに連絡を入れたことを教えてくれた。北GMたちも突然の引退報告に驚いたことだろう。
同期として苦楽を共にした山科さんは、「選手として、怪我に悩んで苦しい期間が長くあったかと思うが、そこから絶対に逃げなかったし、バスケットボールに対して真摯に取り組んでいる姿を見ているからこそ、自分もマネージャーの仕事を頑張れる、回りに影響を与えることの出来る、そういう存在だった。」と語る。
また、同じく東芝時代マネージャーを務めていた吉田直樹さんは、「練習後のシューティングのリバウンダーを当時よくしていたが、自分が納得いくまで打ち込む姿も印象的だった。試合で良いシュートが決まると試合後にハイタッチをしに来てくれる事もあり、裏方の自分にもちゃんと気をかけてくれる栗原選手の気持ちがとても嬉しかった。」と当時のことを振り返ってくれた。
さらに吉田さんは、栗原選手の忘れられないプレーも教えてくれた。それはNBL1年目、栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)とのアウェーゲーム。
「どちらに転んでもおかしくない一進一退の展開の中、誰もがアウトオブバウンズになるだろうと思ったルーズボールに栗原選手が諦めずに客席にダイブしてまで取りに行った。
椅子をなぎ倒しながらのけっこうな激しいダイブにベンチも場内も一瞬『大丈夫か?』といった雰囲気になった。その直後、アウェイにも関わらずMCの方から『Good loose』とコメントがあり場内からも拍手が沸き起こった。
アウェイにも関わらずMC・アリーナ全体の心を掴み人の心を動かすプレーだった。」
献身的なプレーは栗原選手の代名詞だ。さらに、最後まで諦めずに泥臭く飛び込んでいくことは東芝時代から続く川崎の伝統でもあるだろう。栗原選手もその伝統を体現していたのだ。
栃木・宇都宮へ
あの場所に戻りたかった
「2年間いた中でプレーしたのは半年くらいだった」との言葉通り、移籍後もさらに怪我に苦しむこととなってしまった。
それでも、最後までコートに立ちたい思いが切れることが無かったのは、いつもファンの姿、応援があったからだ。
「宇都宮は会場の雰囲気が大好きだった。オープニングもかっこいい。怪我をしてベンチの横で見ていた時も毎回早くここに戻りたいなと思っていた。結局戻れなかったが、戻りたいと思わせてくれたのは、あの宇都宮の雰囲気だと思う。」
さらに川崎同様、メンバーにも恵まれた。
「田臥勇太さんはじめ、どの選手も日本トップレベルの技術やメンタルを持っていると思う。そのメンバーと一緒に練習ができて同じチームでプレーできたことはいい経験で、大きな財産になった。」
試合に出たい、彼らとプレーしたい、そんな強い思いが常に胸にあったことだろう。
強豪チームから強豪チームへと移籍をした栗原選手。怪我に悩まされながらもバスケへの情熱が冷めることは決して無かった。きっとバスケを愛する気持ちはこれからも変わらないはずだ。
栗原貴宏選手へ
栗原貴宏という選手は、ファンだけでなく多くの仲間からも愛された人だ。
最後に栗原選手に寄せられた愛溢れるメッセージを紹介したいと思う。
「チームメイトに、一緒にプレーするのが楽しいと思ってもらえるようなポイントガードを目指して、僕はこれからもがんばります。
僕のリードパスで栗原さんに走ってもらうことはもうできないですね。寂しいっす。ほんとに。
お疲れ様でした。ありがとうございました。これからも末長く、よろしくお願いします。」
大学、東芝、川崎時代ともにプレーした後輩 篠山竜青選手(川崎ブレイブサンダース)
「一緒に東芝に入社して、一緒に新人研修を受けて、同じタイミングで日本代表に入って、チームが苦しい時代も勝っている時代も、同じ空間を経験出来て、とてもリスペクトし合える選手でした。
くりの決断に対してリスペクトして『お疲れ様』と言いたいですし、今まで張り詰めた生活をしていたと思うので、ちょっとだけ休んで家族サービスもして、また新たなステップで、くりらしく活躍してほしいです。
10年間、現役生活、お疲れ様でした。」
東芝時代の同期でもとマネージャー 山科朋史さん(川崎ブレイブサンダース チームスタッフ)
「たくさんたくさん悩んだ末の結論だったと思います。
まずは『本当にお疲れ様でした』と言いたいです。
人の倍以上にハードにプレーしていた分、身体も傷んでいる事でしょう。
ゆっくり身体を休めて、次のステージでも頑張ってください。
陰ながら応援しています。」
東芝ブレイブサンダース元マネージャー 吉田直樹さん
「勝っても負けても取材にはいつも真摯に答えてくれて、こちらの立場も理解してくれる優しい人でした。
思い出されるのは、両膝に黒いサポーターを巻き、足首はがっちりテーピングで固めていた姿。それでも相手のエースに食らいついていく鬼のディフェンスは忘れられません。まさにバスケットの仕事人でした。
これからは試合でのプレーは見られなくなりますが、新たな道でバスケットボールに関わってくれるはずです。お疲れ様でした。」
バスケットボール記者 飯塚友子さん
「必殺仕事人」そんなキャッチコピーが付けられた時もあった。求められた仕事を、着実にこなす。まさに職人的なプレーヤーだった。
そんなプレーがもう見られないと思うととても残念で仕方ないが、仕事人が選ぶ次なる挑戦も気になるところだ。栗原貴宏氏の今後を、これからも応援している。
まずは、ゆっくり体を休めて、労ってほしい。そして、また違った形でバスケットの現場で会えることを楽しみにしたいと思う。
今は心からこの言葉を贈りたい。
「お疲れ様でした。栗原選手、ありがとう。」